皇位継承の危機から見た『フランス革命の省察』
~男系派が全然保守ではない23の理由 byケロ坊
第2回・「人権はヤバイ」と230年前から言われていた
3.設計図の欠陥を指摘すること
バークは『省察』を書くにあたり、イギリス国民の判断材料になればとの思いで、「建築にたとえるなら、現場で石がどのように積み上げられているかを観察するより、設計者がいかなる図面を引いたかを知るほうが重要だと考えた。」と言っています。
これはゴー宣ファンならどんぴしゃで同じだと思うのではないでしょうか。逆にここがわからなかった人が勘違いしてアンチになったりしていますね。
よく知識人・言論人で、表面的なことや、自分にはどうしようもないこと、意味のないこと(総裁選とか政局とか自慢話とか)をダラダラ書いたり言ったりしてる人がいますが、全然面白くないのはそれが根幹の話じゃないからです。
というか、根幹を指摘しようという意思、あるいは能力がないのかも知れません。いずれにせよバークや小林よしのり(あえて敬称略)と違って、保ち守る気がないことの表れでしょう。
4.「人権はヤバイ」と230年前から言われていた
「人権」自体が危険ということも『省察』に書いてありました。第三章にこうあります。
「彼ら(革命に賛同する人たちのこと)は、古来の伝統や、過去の議会による決議、憲章、法律のことごとくを、一気に吹き飛ばす爆弾まで持っている。
この爆弾は「人権」と呼ばれる。長年の慣習に基づく権利や取り決めなど、人権の前にはすべて無効となる。
人権は加減を知らず、妥協を受けつけない。人権の名のもとになされる要求を少しでも拒んだら、インチキで不正だということにされてしまうのだ。」
フランス革命で「人権」は歴史の連続性をキャンセルするために使われました。『日本人論』『愛子天皇論2』に描かれている通りで、人権は最初からこういう使い方だったんですね。
「良い人権と悪い人権がある」なんて話ではなく、最初から人を攻撃するために作られたのが人権というものなのがわかります。
実際今も「人権」「ポリコレ」「DEI」という正義でキャンセルカルチャーしている人たちがいるのはご承知の通りです。
少し脱線しますが、今日も発生している“正義を振りかざして暴走する”ことについて、脳科学でこういう考え方があります。
ヒトという種の歴史として、まず群れが作られた。そうなると群れの足を引っ張る存在は「裏切り者」と見なされるようになり、裏切り者を排除することは群れにとっての「正義」になった。「正義」を実行するとヒトの脳ではドーパミンが分泌され、食事やセックスをするのと同じくらいの「快感」が得られるので、ヒトは常に正義を使って裏切り者を制裁したい、排除したいという欲求にかられている。これがいじめのメカニズム。
というものです。かなり納得できてしまう説明です。そして人権という正義がそこにハマったとすると、人間は不完全なものという立場を採る保守よりも、左翼のほうが野蛮になるのも納得です。
5.「国をどう動かしていくか」という国家観
『省察』の第七章にはこうあります。
「王、大臣、聖職者、法律家、将軍、議会――このいっさいを廃止せよと決議したところで解決にはならない。どんな名称で呼ばれようと、社会から権力が消滅することはなく、ゆえに権力を氾濫しうる立場の者も存在しつづける。」
よく左翼がやってますが、権力というもの自体に反発しても、それは子供の駄々でしかありません。
というか、国家にせよ、会社にせよ、グループにせよ、DOJOにせよ、何らかの集団を動かそうとしたら権力を持つ人がいるのは当たり前です。逆に権力者がいなかったらどうやってその集団を動かすの?という話です。
ずっと前のGJブログ「「集団性」は単純じゃない」の回でのゲーム『デス・ストランディング』内の説明にもありました。
ネアンデルタール人は集団の単位が家族レベルだったから滅びましたが、ホモ・サピエンスは社会や国と呼べるまでの群れを作れたから繁栄したという説です。
であれば、社会、公共、ひいては国家という集団を「どう動かしたいのか」を考えてこそ人間ということになるでしょう。それは本来国民としての基本姿勢でもあります。自分と家族という私的領域のことしか考えないならネアンデルタール人と同じなので。
そしてバークにも小林よしのりにも国家観があります。
反面、男系派・自称保守にも、左翼にも、国家観は皆無です。ついでにコロナを煽ったりワクチン盲信の医者にも国家観はありません。その人たちと話が噛み合わないのは、間違いなくこれが理由だと思ってます。
6.王と伝統との関係
バークは王と伝統との関係を騎士道で説明しています。
「権力を持つ者、あるいはプライドの高い者は、とかく尊大に振る舞いやすい。これを自然にやわらげてくれるのが騎士道である。君主は人々に敬愛されるべく勝手な真似を慎み、頑迷な権威は優美なものに変わる。
法律に頼らないかぎり物事が仕切れない社会より、誰もが礼節を知るがゆえに物事が丸く収まる社会のほうが望ましいのは明らかだろう。」
「封建制を起源とする騎士道は、忠義の精神を社会にもたらした。忠義が重んじられるかぎり、反乱が生じる恐れはない。反乱の恐れがなければ、圧政を敷く必要もなく、王と国民の双方が安心していられる。」
「長年にわたって保たれてきた価値観や慣習が失われることの損失は、まさしく計り知れないものである。それは航海中の船が羅針盤をなくすにも等しい。」
西洋の王と天皇では基本的な姿勢の違いはありますが、騎士道(武士道)や忠義を良きものとするのはゴー宣で描かれていることと同じです。日本の国体は天皇と国民との相思相愛、それがもっと極まれば「恋闕」ということになります。
しかし男系派は「恋闕」という言葉を知らずに「憐憫」とか言ったり、「ときめき(笑)」とかほざくほどの愚劣さなので、騎士道も武士道も理解できず、ありがちな戦後民主主義者でしかなく、しかも逆賊になると来れば、伝統に支えられた国体から最も離れている人たちと言えるでしょう。
【バックナンバー】
第1回
プロローグ
1.保守は逆張りではない
2.言葉の中身、論理の有無
やはり歴史を学ぶということは決定的に重要!
「人権」は誕生した時から、敵を攻撃し、潰すためのものだったわけです。
人権とはそういうもの、「いい人権」と「悪い人権」なんてない!
それにしても、もう10年以上も前になりますが、ネットの生討論の場で「恋闕」が読めずに、「れんびん」と言ってしまった某チャンネルS社長は、男系固執派の正体が見事に露呈した大爆笑の名場面だったのを思い出しました。
早くも高評価相次ぐ「皇位継承の危機から見た『フランス革命の省察』」
明日もお楽しみに!